益子焼

 栃木県の南東に位置する益子町は、江戸末期から陶芸で栄え、現在でも300軒を超える窯元があり、西の備前、東の益子と言われるほどの大窯業地です。毎年春と秋に開催される大陶器市では、日本全国から多くの陶芸ファンが集まります。

 江戸末期より長く日用品として利用されてきた益子焼ですが、大正時代になると人々の生活様式の変化によって陶器が売れなくなり、衰退期を迎えました。燃料が木炭から石炭ガスに変わったため、高熱に耐えられない益子焼はアルミなどの金属やガラスにとって変わられるようになりました。しかし、大正12年の関東大震災の特需で息を吹き返しました。震災で台所道具がほとんど壊れてしまったため、需要急増で作っても作っても間に合わないほどでした。

 そういう状況の中、民芸運動の推進者であった濱田庄司が大正13年益子に移住したことで、益子は新たな発展期を迎えました。それまで日用品であった益子焼ですが、民芸運動の理念に基づいて、日常生活の中に厳然と生きている美である「用の美」を追求した民芸品としての益子焼を濱田が製造したことで、益子焼は「芸術品」としての側面も持つようになりました。そして、多くの職人たちが大きな影響を受け、たくさんの益子焼の民芸品が作られるようになりました。

 現在、益子は、若手からベテランまで多くの陶芸家が窯を構え、日本全国から多くの陶芸ファンが集まる場所になりました。また、オシャレなカフェやレストランもたくさんあり、若い女性にも人気の場所となりました。益子焼は消費者のニーズにともなって日々変化していますが、濱田が唱えた「用の美」の思想は、今でもそれぞれの作品の中に受け継がれています。(Y)

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